傷つきたくない心

2011年2月18日

感情が沸いても、自分でその感情が何なのか判断出来なくて…

嬉しいのか楽しいのか、悲しいのか怒ってるのか…

時として、音楽を聴いてもノレない自分…

旅行に行っても、心がここにない感じになったり…

自分が自分じゃない感覚で、どこか遠くから自分で自分をボンヤリ見ているような…

 “いつも”ではないけれど、時に頻繁に 時にごく稀に訪れる“無感情”と呼ぶべきなのかさえ定まらない感覚。


 決して、冷めていて人に嫌われたい訳じゃない。
むしろその逆で、自分の意図しないところで“何かが”この『虚無』スイッチを勝手に押している。

この『』の本質を辿っていくと、ある答えにたどり着いた。

 大切な“何か”を“失った”人ほど、この感覚が訪れる頻度が多いように思える。
つまり“信じて疑わなかった”ものが不意に失われた時、『感情』をそこに置き忘れたり『感情』を見失ってしまったり…

 その衝撃を受け入れることが出来なくて、認めたくなくて自分の感情を別の何かで装う
その頃からしばらくは、人形の様な面持ちで自分の感情を装う習慣が身につく。

まるで『無感情のお面』を被った生活が淡々と繰り返される。


 人によって様々だけれども、長い年月を経て認めたくない過去も徐々に薄れ始め『前向きに』を意識し始めると、久しく心から笑えた気もするけれど、お面を被っていた頃の後遺症なのか…

 【うまく笑えている自信がない

鏡を見て笑顔の練習をしても、目の奥までは鍛錬出来ない気がして…
特に、鋭い人には見破られてしまうんじゃないかと思ったり…

そんな自分に気が付いてもらえると、すごく嬉しい反面。

素直に喜べない自分もいる。


大切」 “失う”ことが怖いのかもしれない。
“失う”をキーワードに、自分の心にブレーキがかかったり、真逆の感情をぶつけたり…

結果、相手に強いことを言ってしまったり…

 仲良くしたい、けど失うのが怖くて距離を近づけることが出来ない
人と距離を保って接してしまう。


 失礼を承知で、相手にきついことを言って、どこまで耐えられるのか試してみたり…

相手の許容力や忍耐度があればあるほどに自分にとって“大切”な存在となり得るけれど、大切に想う心が強すぎて逆に距離を保ったり…

とにかく心が勝手に『傷つきたくない』反応になってしまう。


頭でわかっていても、中々自然に この『防御反応』とも言える感情が薄れることは無い。

 年齢を重ねる度に強くなっていく気もします。
しかし、自分なりに確信的な悟りを見つけてしまいました。

 どんなに『防御反応』が継続して、人に冷めてると言われようが感情が薄くみられようが、
案外“人はちゃんと見てくれている”と言うことなんです。


 辛い経験も自分だけが知ってるつもりで、相手には到底無縁だろうと思う過去であっても、ジャンルやレベルが違ったとしても誰もが皆 “悩み”を抱え“過去”を持って今を生きています。

 同じような経験をしている相手は特に“強い共感”を抱きますが、同じ経験をしていなくても相手の経験上で見るところはちゃんと見ていてくれるんです。


 自分でも何が本当の感情か分からずに、自暴自棄を起こしたとしても
例え生涯『天涯孤独』を選択しても、中々孤独にしてくれる環境はこの星にありません


 ある程度自分の中で“過去”を消化できたなら、自分の『無感情』な波に囚われたりせず、大いに人の目を気にしないで生きてみる方がよっぽど相手にとっても、自分にとってもプラスになるはずだと確信しております。


 この様なことから、自分が気にし始めると、相手も気にし始めます。

 相手に胸の内を説明できれば、衝突や失うことも回避できるけれど、うまく説明できない場合には、少しずつお互いの感情がすれ違ってしまう場合もあります。

 本来 “失いたくない想い”で出てしまった感情のつもりだったのに、説明できずに損な役回りばかりをしてしまわない様に、ここに見て感じてきたことを綴ります。


 いつの日にか、うまく説明出来ない自分がいた時はこのページを開いて相手の顔に押し付けます。
(^-^*)/

もしくは、自分の心に。

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